昭和41年07月17日 朝の御理解
私が、知った人がここに生きとられた、人間まあ人情の強い人がある。それでおかげの受けられない、行き届いて、行き届いたにも係らずおかげが受けられない。人情が強いいわゆる人間心が非常に強い。これはあの神様の御覧になる見方と、私共が見る見方とあの人がどうしておかげが受けられんだろうかと。本当に行き届いた方であるのにと、こう云う様な場合が御座いますですね。
かというと何かこうそれとは反対の人がありますよね。迂闊な風にしておるけれども、いわゆる人間心を使わない人がある。矢張りそういう人がおかげを受けるですね。あれはあの段々お徳を受けましてそして使う人間心であり、人情であるともうそこには神情と人情が一つに融和した何ともいえん、どうてんがなるで御座いますけども、ただ人情だけで行ったんではそれはいかに、まあ人情厚うして下さってもおかげは受けられん。信心ばかりはもう義理人情でおかげ頂くのじゃない。もう神情一つなんです。
昨日、私その人の事を頂いた人情が厚い。この人はあんなに人間心の強かった、人間心の強いちゅうが人情の厚い人。そしたら一つの事を例えて申しますなら、その人の子供さんが、どうもこの頃夜更かしをしたり、まあ親の心配になる様な事をがある訳なんです。行き届いておるもんですから、その思い方も非常に行き届いておる。もうああでもなかろうか。こうでもなかろうかと疑ごうて詮索する方も非常に強い訳ですね。
人間心の強い人は、息子さんはこうじろっとこう、横目で睨んでおられる様なところがある。そういう見方なんです。そしたら信者さんにです。睨んでおる目がですね。もう見る見るうちに充血して行くとこを頂いた。なるほど人間心の強い人が、おかげが頂かんのはこう云う様な事だと思う。有る意味で、は非常にそれ良い場合に、現れた時には行き届いた人じゃと思う。
本当に行き届いておられると言う風にですね。言いよるんですけれども、それが一つ人を疑うたり、何かする風な見方をする時には行き届いておる為に、人間心が強い為にああでもなかろうか、こうでもなかろうかと詮索しますです。そして、人間心であの手を打ったり、この手を打ったりする。人間心の強い人はねそういう意味でおかげを受けられん。目は心の窓だと、こう言われておる。人間心使うてああでもなかろうか。こうでもなかろうかと詮索する。
言わばじろっとその睨んでおるその目がです、たちまちこの充血して行くという事。濁って行くと云う事。人間心を使えば使う程心が濁ると云う事。どういう神様の働きが有りよるやら解らんのですからね。そうそこ神情一つでその事に接し、神情一つでその事を見て行くという、生き方に成らなければいけないなと思う。人間心はいけません。人間心を使うとですね場合によっては、それは素晴らしい行き届いた事になるんですけれども、人間心の強い人はおかげは受けられません。
矢張りこの点は、少しは抜けた様にあるけれども、矢張り信心させて頂いて、本当に神乍らないわゆる神情一つでおかげを頂いて行くというおかげを受けなきゃいけません。昨日、思い掛けない、東京から久保山先生所の稔さんが親子三人連れ帰って来た。丁度、私が12時に下がるちょっと寸前であった、ですから何にも無かったけども食事ども一緒にさせて頂いた、おかげ頂いたんですけれど、ほいであの お神酒が好きですから、お神酒どんも出させて貰ったんです。
高橋さん達も( ? )方です、やっぱ親子三人連れでもう、迎いに博多の駅で迎えたんでしょう。一緒に来てました。ほんでまあそのあんまり頂くちゅう程しも頂いていないんだけれども、あの、いわゆるお父さんが言わば睨まっしゃわけね「お酒どん頂いてもう、そげん昼から頂いて」ちゅう、人間心なんね。それが中々そのそれもあの、まあある意味では人間心もそういう意味で素晴らしい事だと。
もう本当に人間心を使わない人、場合によっちゃ、本当に不仕付けな事がありますね。子供連れて来てて、子供がどげないたずらしよったっちゃ、ほけんごとしとる人がある、もう障子を破りよろうが、どしよろうがもう、いっちょん気に掛けんという人がある。「もうほらそげんしなさんな。」ち言う様なこつでも、向こう行ってから捕もうともしない人がある。かというと、人間心で御理解頂きよったっちゃ、子供がどうかしよるともう御理解がもう耳に入らん。
もう、そういう、本当にそういう場合ですね、その人間心を使う程良かろうごたあるけども、信心では反対ですね、あんまり行き届き過ぎたちゃおかげ頂かん。で稔さんが、お父さんが、お父さんが、睨みござるち訳なんです、もう解るんですね。もういい加減で止めんかそのと言わっしゃらん。声が聞こえて来る訳です。私もほんな事気付く、あの気付くした訳じゃなかったけれどほんなこっちゃんね、て言うてから話こと。もうそれこそ昼からお酒を頂くちゅ事は先ず私はない。
それこそそうしてお客さんでもあるけん。ゆっくりとお神酒の頂ける時、いうならば親孝行なんです。まあ私の相手してから、本当にあの私が喜びよるとじゃけん、そこがそのお父さんに分らんとじゃからと言うてから、話した事ですけれどもです。これなんかも、矢張り人間心ですね。もうそれはその人間心使うと云う事が、あのういけないのじゃない、そういう場合のあの良い意味合いでですからいいんですけども。
これが反対にです、今度はその人の心を詮索する様な時に行き届いた、いわゆる考え方をする事がいらん事になる。いらんと目が充血する。目は心である、心が濁るのである、人間心の強い人は、だからおかげは受けにくい。その人達が本気で信心修行させて頂いてです。お徳を受けさせて頂くとその人情が生きて来る。行き届いた人情、どうもその時が人情と神情が一つになっておる様な、その本当に思いの深い厚い、どっちかちいうなら私どん、まあ人間心の強い方である。
段々おかげ頂いて来てから、もう気が付いておってもそれを言わんで済む。気が付いておってもそれをせんで済む。いやそれをおかげとこう頂ける様段々成って来た。それが有り難いですね。そこをやっぱりその、お互いにならぼんやりとした性格の人もおりゃ、気のきいた性格の人もありますけれども。どっちかというとぼんやりした.の方がおかげを受けやすい、というてそれが良いというのじゃない。
人間心が強いのが悪いというのじゃない。人間心の強い人が本当に修行してお徳を受けたらです、その人間心が本当に良い意味合いでの人情、所謂神様がお使いなる様な心とそれとが一つになる様なおかげが受けられる。そこでお徳を受けにゃいかんのですよね。これも昨日毎日日参をして見える方、お商売をしておりますけれども、お商売がだけではじっとこう物足りない、そいでここに何か思い立とうとこう言うのである。
親先生にお伺させて頂いてから、親先生のまあ仰って頂く通りにさせて貰おうと、それで私その事を神様にお願させて頂いた。そしたらあの、今頃あんまり使いませんですね。あの農家の人達が、今頃使うですかね、田に水を掛ける時に車のこうこう水車なんですよね。水車こう足で踏んで、そして水が向こうの方へ掛かって行く、こんな水を干す時やらに使う。あの足で踏む水車が有りますよね、あれなんて言うでしょうか、あれを一生懸命その親子で代わる替わるそれを踏んでおられる所を頂くんです。
そんなんも段々少なくなって行く、水は向こうへどんどん流れて行きます。信心させて頂いて、本気で信心させて貰う様になるとですね、そういう過程が必ずあります。そこを大事にしなきゃなりません。水と言えば、お恵みと言われます、お恵みの水がが言わば、却って信心一生懸命しだしたら減って来る。例えばお商売なら不信になって来る。思いかけない入費がかかって来る。
信心の無いのにあった、例えば貯めてあった、金が無くなってしまったと云う様な事があります。これはもうひとつの過程ですね。もちろんその頃になるとその事が、また有り難いと云う事に成って来ておるんですけれどもです。そいで私は、その方にこれはその事は、私が考えても非常によかろうごたる人間心使いや、その内どうでんこうでん思い立たんのち言うごたる。
こういう時がです。人間心使うとやり損なう。ほんな事そりゃよか事ばい、そりゃよか思いたちばい、さあ私も一丁神様にお願いする、一丁おかげ頂きなさい、成程その事は、ひょっとすりゃおかげ頂くかもしれんけどもです、けども本当のおかげになって行かんそれでは。「人情じゃ御取次ぎは出来んなあ」私思う。そいばってんまあ私申しました、「あなた方おかげ頂いとるですね。」
こういう時に本当に御神意を頂いて、そして腹が決まると云う事は有り難い事じゃ。私が考えてもあなた方が考えても、これは、いよいよ良かろうごたる、けれども御神意を頂くと今が一番大事な時。一生懸命あなた方( ? )踏んで行きよる、いうならあんた方の手元の方が段々淋しゅうなっていきよる、水は少なくなっていきよるけれども、さあ取るも取らんも魚が背中出してごちゃごちゃ泳ぎよる。鯉やら鮒やら、水が一杯の時にはその鯉やら鮒やら取られない。
いよいよ水が少なくなって来たから、その鯉が取られるのであり、鮒がとられる事になる、その鮒どんとって、鯉どんとってからその後にまた、一杯水が溜まるおかげを頂いたら有り難いね。まずまず、今お徳の頂き掛かっておる所なんだもん。その精進をしようるとこなんだから。今バタバタしたっちゃ惜しい。ちった焦る所がある。焦ったっちゃいかん。それこそ人間心じゃいかんここんとこ一つひと徳受けさせて頂いて。
その徳の力を持って、次に何をさせて頂くか分らんけれどもさせて頂いたら、おかげ頂くだろうな。何時日々御理解頂とるからすぐそれが分かる、そういうとこにも、人間心では、おかげを受けられん事が分るでしょう。丁度、その方がですね、お伺い、先生がいかんと言わっしゃったらあの折角のこげん良か話しが断ち切れになるから惜しいから、どうぞこの商売をこう云う事を思い立たせて下さいというて願うとったらそら、それは、ただそのまま御取次ぎさせて頂いたかもしれん。
そこで、人間心を抜きにしてね、自分の思いというものを抜きにして御神意を伺ごうて、御神意のままに動こうとした所におかげが受けられる。いや徳も受けられる、道を又示して下さる。成程今、不用意になったり、少し寂しい様に思うておったけれども、これもそう言うご都合であった。今こそお徳受けなければ受ける時はないんだ。と云う様な、弾む心が出来て来る。そうして私はお徳を受けて行くのである。お徳を受けさせて頂いてからの、今度は人情になって参りますとですたい。
それはもう神情と同じ、実に融和したですかね。その人が例えば人情でいうておられる様な事にでも、神様がちゃんと裏付けをして下さる。あれは先生がどうも人間心使い御座るごたるというても、その人間心でおかげを受ける様になる。何故ってそれは、その人間心が神情と同じなんだからです。お互い信心の進む間に、間は人情を使う特に行き届いた。非常に心を細かく使う人は、行き届いて良い様にあるけれどもです。
良い様に、良い方に使う時は素晴らしい、けれども、それと反対の方に使う時には、それが、その問題を言わば、担う事になる。神様の心が解らんから、いうならば。昨日の久保田先生の、私の思いが分からんから、その稔さんが言われる様に、はあお父さんが心配し御座る。あまり飲むのでお父さんが、早よう止めりゃよかち、思い御座る事が分かる。もう今日はゆっくりと親先生の相手を一つ頂かんの、ちゅうごたる風な考えの方がその場合おかげ頂くの。
そこんにきはですね、あつかましかと人間心使うとは違うです。あつかましかつやっぱいけませんですね、あんまりあつかましいと、そこんにきがです、そこんにきが分かる信心にならにゃいかん。そこのとこの見極めが出来る信心にならにゃいかん。はあ、こういうとこに人情つこうちゃいかん。こういうとこに人間心も言わば心は濁すだけの事だ。自分で分る。人間心使いよると自分で。この頃からです。
朝の御祈念に若先生が出て来ません。何日も続けて出て来ません。そいから人間心使うならです心配である。どうした事じゃろうかとこう思う。そいで私そのこれはどうした事かと、まあいわゆる人間心使いよる、したらそのすぐ後に来てこの頃中学生が二人おりますから、試験がありよる、そして夜通しこの頃そしてその勉強を教えてやりよるから、朝があのまあご無礼しとると云う事が分かった。
人間心ではいけん事がわかるでしょう。言わんで済んで良かったと云う事になるんです。例えば私がです、それをただもっとらあといやあよかばってん、ちとつっけんどんにです。「おまえこの頃どうした風か、おまえ考えが間違えとりゃせんか」と例えば言う様な風にでも言うて御覧なさい。そいこそ私の浅い心を言わば子供が軽蔑するでしょう。けれどもそういう所に人間心を使わずにおかげを頂いていく所にです。
ああそういう訳じゃったかと、言った様な事を、その後に分からせて貰うね。そう言う様な、言わば見方をする時にです、人間心使ってどうしてやろうか、こうと思うて見る時にそらその事を、神様の御働きの中にあるのだからと、その、神ながら主義で、その生かして貰うとこに、にらまんで済む。皆さん、その人間心でいろいろな事、にらんでおる様な事なかろうか。非常に人間心の強いという、非常にだから人間心の強い人、ある意味じゃ疑い深いて云う事なんです。
これもう気の向くまで疑ごうて来る、いわゆる人の腹まで探ろうとする。そういう時、貴方の心はいよいよ濁りに濁って行きよっ時なんです。もう忽ち充血して行きよっ時なんです。人間心がいけんのじゃない。けれどもそれが反対の方に行くと、そういう言わば折角頂いていくおかげを落とす事になりますから。言わば、睨まなければおられん。そういう心の起こる時にいよいよ神様に心を打向けて、おかげを頂いていかなければならん、同時に自分に徳がないから、いわゆる肉眼で見る。
心の目を持ってすれば、お礼を申しあげねばならん様な事に、心の目を持ってせんから、言わば心が血走って来るのである。それではおかげを受けられん。為にどうでも一つ本気でお互いが信心をさせ貰わないかん。信心をいよいよ自分の物にさせて頂いてです、お徳を受けて行かなきゃいけん。お徳を受けさせて頂く事によって、言わば人情が、人情としての神情がですもう毅然として一つになる。
人情も神情も変わらない様な心が段々と使えて来る様になる。そこに本当に有り難い世界があるのです。いよいよおかげの受けられる世界があるのです。どうでもひとつ人間心使って喜ばれる、人に喜ばれる人間心ならまだ良いとしても。それが、反対の方に、言わば睨む様な人間心を私共が使わん様に本気で心掛けさせて頂ゃいけないと思うですね。
どうぞ。